![]() ![]()
第二次世界大戦中の米国水兵はダンガリー・ズボンをはいていたそうだ。「ダンガリーズボ
ン」っていったい何のことなのだろう?アメリカの生地辞典でダンガリーを調べると「作業着に 用いられる厚手のブルー・デニム」と書いてある。ブルー・デニムが素材の作業ズボンというこ とは、ブルージーンズと似ている。戦後、上野のアメ横の古着屋に集まったブルージーンズとい うのは、もしかしたら米国水兵がはいていたデニムズボンなのかもしれない。
デニムは水をくぐって乾く時に縮んでしまう。ということは、濡れたジーンズをはいたまま乾か
せば、体のシルエットに合わせて、たくさん縮むところと少ししか縮まないところが出てくる。各 自の体に合わせてジーンズがシルエットを作ってくれるのだ。
アメリカのカウボーイたちは、暑い日に新品のリーヴァイスをはいて川の中へ入ったらしい。
そうすれば、デニムの収縮性によって、体にフィットしたシルエットのジーンズが出来上がる。ど うしてカウボーイがそんなことをしたかというと、ジーンズをジャストフィットさせる必要性があっ たからだ。ズボンにタルミがあると、馬の乗り心地が悪いだけじゃなく、脚に血マメや傷ができ やすい。体にフィットしたジーンズは、乗馬のために必要だったのである。
意外な感じがするけれど、ジーンズはニットの部類に入る。「ニット」は英語で「編む」という意
味になり、編まれたものの総称になる。繊維大国の日本製デニムの品質は、今や海外でも認 められるほどになった。一年の世界での需要が十七億本になった現在、日本製デニムは本場 のアメリカに輸出されるまでになった。
日本でデニムが生産されるようになったのは、70年代からだ。日本でもジーンズがつくられ
るようになった時である。それまでは輸入デニムを使っていた。日本国内でのジーンズ生産本 数は、70年代は1,000万本程度だったが、最近は7,000万本を越えている。それだけジ ーンズが日本人に定着したということだ。
日本でのジーンズ業は、戦後になって米軍が放出した中古衣料から始まった。当時のアメリ
カは、日本の若者にとっては夢の国で、中古でもあっと言う間に売り切れてしまった。俳優のジ ェームス・ディーンの人気もあって、リーゼント、革ジャンに、ジーンズが日本の青年を夢中にさ せた。
日本のデニムの主な生産地は岡山県で、岡山のデニムは世界に輸出されている。品質、納
期、供給力など、総合的に世界屈指の規模と力を誇っている。岡山というのは、確かユニクロ の社長の出身地で、昔から繊維関係が地場産業になっている所である。アメリカ製のジーンズ に、日本製のデニムが使われていても不思議じゃないってことだ。
ヒッピーとは66年頃にアメリカに登場した若者たちの集団である。体制社会からドロップアウ
トし、孤立しながらも自由奔放に群棲した。安くて実用的なTシャツとベルボトムジーンズが彼ら の普段着であった。ヒッピーの男たちは、体制社会のシンボルであるスーツを否定し、女性た ちも開放的なファッションで身を包んでいた。
そうしたヒッピー・ファッションが日本でブレークしたのは、68年頃だった。ヒッピーそのもの
の影響より、当時のロックバンドのコピーといった方が当たっている。数万人のヒッピーが集っ たウッドストックのロックコンサートの映画がきっかけとなった。
ヒッピー・ファッションは結果として、ジーンズとTシャツを日本のヤングに定着させた。当時は
大半がジーンズのことをGパンと呼んでいた。戦前の日本人はジーンズをまったく知らなかっ た。50年頃、米国の駐留軍の兵士たちが、休日にジーンズをはいて日本中を歩くようになっ た。その時に初めてジーンズを見たのだ。兵士のことをGIといったので、GIがはくパンツだから 「Gパン」になったのだ。
50年頃にGパンに憧れた当時のヤングたちは、東京御徒町のアメ横で、GIたちが横流しし
た中古ジーンズを手に入れた。50年後半には、ジーンズも日本の男性の間で流行し始めた。 全てがアメリカからの輸入品であった。
そして68年頃にヒッピー・ファッションの影響を受けて、ジーンズが日本の若者の間に定着し
たのだが、ベルボトム派とストレートジーンズ派の二つに分類された。リーバイス14オンスデニ ム501はストレート派の間でブレークした。股上が浅くてベルトの位置が低く、幅広のベルトが ヒップボーンまでずり下がる。そのスタイルは当時のズボン下げ族がスカマン・スタイルにして 流行させた。 ![]()
|